面白い記事を読みました。“日本文化というのは世界的に見ると、かなり変わっているらしい!”という記事。
それは、日本人も他の民族と同様に、『豪華、華麗、完璧、均整』の美も評価しますが、より成熟した美意識として、『簡素、飾り気のなさ』などの“不完全な美”を重視するところ。これらは他の民族には必ずしも評価されません。実はこれこそが日本文化の大きな特徴なのだそうです。確かに!
建築で言うと、“簡素、飾り気のなさの美”は、無着色の素木(しらき)の柱や梁。無装飾で余分な彫刻の少ない窓枠や内装仕上げなどで表現されています。日光東照宮など、ど派手な装飾の建築物も大いに評価されますが、一方では、伊勢神宮や出雲大社、桂離宮のシンプルな仕上げも大切にされてきました。
“不完全の美”は、その素材そのもののシンプルさや多少の傷を含むことをも、より自然な美と評価するところです。不完全であり不均整、無常感や滅びも感じさせます。
左右対称建築よりも、左右非対称建築を、より自然な美があるとして評価されることが多い。建築でなくても、生け花などは、左右非対称のなかに釣り合いを保って美を作り出すのだとか。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」平家物語の一節。滅びと再生という自然界と時間の概念、そこに見出す儚くも逞しい美意識。四季のある日本列島に育った独自の美意識です。
この記事の中でもっとも面白かったのが次の文章。
欧州に「フランダースの犬」という少年小説がありますが、この物語、米国では「負け犬の死」としか受け取られなかったのか、5回も映画化されたにもかかわらず、いずれもハッピーエンドに書き換えられたらしいのです。しかし、日本では悲しい結末の原作のまま大ヒット。なぜ日本では多くの共感を集めたのか?これは欧州で長く謎とされて来ました。最近になって、この物語を検証するドキュメンタリー映画が作られ、その結論として、日本人の心に潜む“滅びの美学”が注目されたとか。「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけられたそうです。これら世界的に見て非常に特徴的な“日本人の美”。“滅びの美学”をも評価し得る能力を日本では「いき」と呼びます。また逆に、その能力に欠けることを「野暮」と言うのです。
日本人は自然と厳しく対決したり、それらを改変することをせず、むしろあるがままの自然と融和して暮らしてきました。したがって、人工の美を評価する一方で、あるがままの自然そのものの美をより高く評価します。ありのままの“簡素、飾り気のなさ”は、日本の家作りの中でも重要視されていますね。四季の区別が明確な日本列島では、移り変わる自然の中に、不充分な美、盛りを過ぎた美を感じます。春先の桜を見て、『この世に常なるものはない、永遠なるものはない』という無常観、滅びの美も感じます。
このようなあるがままの自然と融和した暮らしの中で培われた日本の美意識を、住宅建築に体現させた我々の先達には、まだまだ学ぶべき奥深さがありそうです。