子どもの頃、私と弟の仕事は風呂焚きでした。風呂焚きといっても、薪をくべて炊くお風呂です。そのころはまだ材木屋もやっておりましたので、端材でいくらでも手に入りました。5時半に帰ってくる祖父がすぐに風呂に入れるように、5時くらいには炊き始めます。まずは湯船に水をはるところから。
遊びたい盛りの子供のやることですので、すぐに水を入れているのを忘れてしまいます。湯船から溢れてしまい、叱られながら調整します。そして、外にまわって窯に火を入れるのですが、まずは薪割り。大・中・小と薪を揃えておきます。
新聞を丸めて火をつけ、小さな薪に火を移し、中から大へと火を大きくします。焚きすぎれば水でうめ、冷たくなり過ぎればまた薪を入れる。自分も含めた家族全員が入り終わるのに2〜3時間。お湯の温度管理をしますので大変です。
大人になって新型の給湯器が出た時は感動しました。スイッチポンで、40度のちょうどいい温度のお湯が、ちょうどいい量でピタッと止まる。私の数時間が省かれるようになりました。
でも、なぜだか子供の頃よりも家で過ごす時間が気忙しい。不便で手間がかかる子供の頃の方がゆとりがあった。ぼーと窯の火を眺めながら、弟と話をする時間。家族でお膳を囲んで食べる夕食の時間。今の生活の中に、あんなゆったりとした時間が毎日あるのだろうか?なんでもスイッチポンでできる今の住宅は本当に正しいのだろうか?ついそんな風に考えてしまいます。
決して不便に暮らすほうが正しいといっているわけではありません。便利な方がいいし、時間を好きに使える方が良いに決まっています。でも、その空いた時間をもっと有効に使えないのか?と考えます。家族の団欒や、家族の文化向上にこそ、文明の機械によってもたらされる時間を使っていくべきなのです。