先月、ヤマヒロに長らく勤めてくれた小林大工さんが亡くなりました。小林さんは私が物心ついた時にはすでにうちの現場にいたと思いますね。
私が小学生の低学年の頃、丸ノコで指を怪我したんですが、その時期、『この怪我の労災保険で家の頭金ができたわ。痛かったけど。』と前向き?に喜んでいたと記憶しております。
そして忘れもしない、私が中学の頃。社員旅行の帰りにバスで寄った赤穂の海岸の崖。酔っていた小林さんがおどけて柵を乗り越え、そのまま90メートル落ちたんです。みんなで崖を下りなんとか救助。家で留守番をしていた私たちは大変心配したものです。
しかし、なんと、それから1年間の入院の後に奇跡の復活! 事務所で『これでやっと働ける!』と言っていたのを覚えてます。まさに不死身の男。ちなみに、隣に入院していた方は2メートルの脚立から落ちて亡くなったとか。
私が高校に進学した頃にはバリバリの第一線で現場にいました。私も長期の休みには現場に出ていたのですが、小林さんについて回っていました。あの転落事故は、会社にとっては大事だったのですが、人柄なのでしょうねぇ、いつもニコニコの笑顔でお客様からも人気があり、やはりリフォーム屋のうちにとって、なくてはならない大工さんでした。お客様から指名が入ることが多かったように思います。
そんな小林さんも歳を取り、目も見えにくくなってきたりで、現場の大工仕事から、うちの大工小屋での材料ごしらえの仕事に。晩年は病気を得て、療養を勧められるも、少ししたらすぐに工場へ出てきては、『なんでもええから仕事する』とじってしてませんでした。
さすがに最後は2年ほど寝込まれ、つい先日亡くなりました。喪主の長男さんに聞いたのですが、亡くなるその日も『早くリハビリして、仕事に行きたい』っておっしゃっていたそうです。働くのが好きだったのか、建築という仕事が好きだったのか。それはわかりませんが、私は、“働きたい=自分を活かしたい=生きたい“ と、いうことなんだろうなぁと思います。
事務所の上が自宅だったので、学校から帰ってきたら必ず顔を合わせてた私にとって小林さんは、いて当たり前の存在でした。考えてみたら小林さんがヤマヒロに入ってから55年経っています。私の父よりもヤマヒロ歴が長いんですね。本当に寂しくなります。
しかしながら、建築というのは本当に幸せな仕事です。機械化が進んできたけど、やっぱり、一からの手作りですし、お客様に合わせての一品生産。自分がやった仕事が形になって残るのが魅力です。そして、お客さんが喜ぶ姿。誰かの役に立っている、自分を活かせているとの実感。創作意欲や達成感。何千年も前から続くものづくりを次代へつなげたという思い。そして、自分が生きた証ができるから。