こんにちは、設計の玉中です。
散歩がてら山林を歩きに行く第12弾。佐用郡にある上月城跡を目指して山を歩きます。
上月城跡は佐用郡佐用町にあり、佐用は播磨・備前・美作三国の境界に位置する地理的要素から幾度となく攻防の的となりました。
上月城はその中でも織田信長が中国地方の毛利氏を攻める前哨戦となった上月合戦の主戦場となった山城です。
織田方の羽柴秀吉軍が一度は攻め切って家臣が入城するも、翌年に3万人とも6万人とも言われる毛利方の大軍から反撃を受けます。
秀吉も1度は1万人を超える援軍を送ったものの、三木城を攻めるのに苦戦していることもあって撤退し、最後は見捨てられる形で落城しました。
JR上月駅から歩いて10分ちょっとの距離にある『上月歴史資料館』が入口として車を止められるようになっています。
歴史資料館の中にはこの地であった合戦の関係者の資料や山林道の地図などが掲示されています。
それでは山林へ入っていきましょう。
資料館の道路向かいに水路があり、渡ったところが遊歩道の入口になっています。
休郭(きゅうかく)と呼ばれるスペースに着きました。
「郭(くるわ)」とは城の中で屋敷を建てたり陣地を張ったりするための平たいスペースのことを言います。
同じくるわでも「曲輪」と書くこともあります。本陣に近い囲いの内側が「曲輪」で、外側や中心的な曲輪以外の平場を「郭」と分けて呼ぶという説もありますが、地域差があるようでハッキリはしていないようです。
休郭とは何か、は明確な説明が見つかりませんでしたが、まだ堀切にも達していないので、おそらく城に入りたい人たちを門の外で待たせておく待機場所のようなものだったのではないかと想像します。
まだここから城跡へ向けて登って行くのですが、既に上月駅の方を見下ろせるくらいになっています。
標高190mの山頂の城跡には織田軍の羽柴秀吉らに攻められるまでの長い間、この一帯を治めていた上月家を含む赤松氏一族の供養塔が立っています。
供養塔の向こうに見えるのは仁位山で、織田方による上月城攻めの後に毛利軍が上月城を取り返すために陣を張った場所であると考えられています。
山頂の主郭を通り過ぎて少しだけ下り、二の郭へ。
北向きのビューポイントがあり、利神城跡や西はりま天文台などが見えるそうで看板が設置されています。
2月下旬で花粉が飛び始めていたこともあってか、全然見えませんでした・・・。
二の郭を越えてさらに下っていくと、堀切(ほりきり)の跡が現れました。
堀切は空堀の一種で、城を攻めようとする敵が登りにくいように山を削って溝を作ったものです。
城の塀の周囲や曲輪同士を繋ぐ道の側方部分などによく見られます。
この上月城では尾根筋を伝ってくる敵に対処するために尾根筋を切った堀の跡が残されています。
堀切に直行するように続く遊歩道を下りていくと分岐点があり、歴史資料館の前の道に出られる下り坂と、さらに奥にある後山へと続く上り坂に分かれています。
後山には「目高の築地」や「大成山城跡」という砦跡があるようなのですが、グルっと回るのに4時間くらいかかるそうなので、飲み物とかの準備もしていなかった今回はここで下山します。
水路横の平場まで下りてきました。
遊歩道入口で渡った水路と繋がっているもので、ここから資料館前の県道までは山道らしいアップダウンもほとんどなく、緩い下りとなっていて歩きやすいです。
資料館が見えてきたころ、供養塔を発見。
山頂にあったのは赤松氏のものでしたが、こちらは秀吉に従って上月城に入って後に毛利軍に攻め返された尼子氏が祀られているものです。
遊歩道入口から資料館前に戻ってくるまではおよそ1.7kmで、散歩には丁度良い距離かもしれません。
個人的には少し物足りないですが笑
地元の小学生も行事として登るそうです。
今回は以上です。
これからの季節は狩猟期になります。
上月城跡だけなら大丈夫だと思いますが後山まで行ってみようと思う方は「目立つ色の上着にする」や「白の首タオルは避ける」などの準備にも気を使って、安全に楽しんでください。
新築事業部 管理設計 玉中健太
____________________
姫路市・加古川市・たつの市を中心に
兵庫県播磨地域で注文住宅を建てたい方
新築・リノベ・リフォームをご検討の方必見!
____________________
!!!必見!!!
\ヤマヒロ式デザインルールをご紹介/
!!!3つのモデルハウス!!!
\兵庫県播磨地域に合った住まいをご提案/
!!!フォロワー3.6万人!!!
\ヤマヒロ公式instagram/