ヤマヒロ物語
創業60年 しそうの財を活かした家づくり
ヤマヒロは昭和33年に創業し、平成30年12月1日をもって創業60年を迎えました。 これもひとえにお客様、業者様、社員のみなさん、地域の皆様のおかげです。 これを機に、なぜ現在ヤマヒロがしそうの材にこだわって家づくりを行うのか、 なぜ建築・リフォームを始めることになったのか、小さな工務店ですが60年の歴史をまとめました。
製材所としてスタートし、建築の世界へと展開した創業期
今から約半世紀前の1958年(昭和33年)、兵庫県の西部『播磨地域』の北、林業の町宍粟郡(現宍粟市)山崎町でヤマヒロは魚や野菜の出荷用の杉の箱を作る製材所として創業しました。創業者は三渡弘。大東亜戦争で辛酸をなめた中国の戦線から帰還し、兄の製材所を手伝っていましたがこの年に独立。『山崎町の弘』から屋号を『山弘』としました。 そして昭和40年頃、高度経済成長が始まり、全国で建築ブームが起こります。また、農業や漁業の出荷用の箱にもプラスチックやダンボールなどの軽くて安価な代用品ができ、木箱が要らなくなったため、これらを作る小さな製材所は、米松や北洋といった外材を挽く建築資材の製材業へと変わることを余儀なくされました。ヤマヒロもこの時期に建築資材の製材業へと転進しております。
安価な外材の輸入とオイルショックに見舞われた混迷期
しかし、このころの外材は流通コストが大きく変わったため、仕事は山のようにあったのですが、挽けば挽くほど赤字が出ました。そのため、小さな製材業はどんどんとつぶれていき、宍粟市でも80社あった製材所が半分以下になっております。 さらに万博を成功させ高度経済成長期にあった日本を昭和48年にオイルショック、昭和49年にドルショックが襲い、経営的に衰弱していたこれらの製材所はそのほとんどが倒産していきました。このときにヤマヒロも製材業で破綻をきたしました。幸い、そのころにお付き合いをさせていただいていた建材屋さんのご好意により、おかげ様で取引先に迷惑をかける事は免れましたが、この建材屋さんに建材部門を吸収合併された形で、建築部門のみ屋号の延命が図られました。以後3年間で、援助をいただきながら合併された建材部門が黒字にかわり、昭和52年、完全に建築部門だけになっての再スタートを切ることとなったのです。
人が嫌がる仕事に活路を見いだした再生期
この時期、政府の景気対策の影響もあり建築ブームが再開。建築業界は空前の好景気となります。企業の設備投資による大型の工事をはじめ戸建新築工事も活況を呈します。そんななか戦後30年が経ち、『ちょっとトイレだけを改修したい』や、『家族が増えるから二階に増築を』などという要望が出始めました。当時、大型の工事に比べてちまちまと小さくてやりにくい仕事という意味で『ゴソ仕事』と言われたリフォーム仕事は、充分に仕事があった職人さんからは嫌がられる仕事でした。しかし、他人のいやがる仕事でも、需要が多い。つまり改装をしたいのにしてもらえなくて困っているお客様が多いと考えたヤマヒロは、これを専門にやれば多くの方に喜んでいただけると考え、昭和57年に改装の専門会社(株)山弘営繕サービスをスタートさせました。
人とのつながりの大切さに気づかされた転換期
しかし、製材業時代からの累積赤字が多くあったため、大工さんの日当や協力業者さんへの支払に手形を多く発行しております。仕事が増えれば増えるほど手形に追われる日々が続き、新しいサービスや商品開発に知恵が回らない。そうこうしているうちに、創業社長がガンで入院することになってしまいました。 そんな中、地元山崎のある会社の社長がヤマヒロを訪れ、唐突にこう切り出したのです『保証人になるから5千万を借りろ。そして手形商売はやめろ。5千万はゆっくり返せばいいから。』と。この方は、ヤマヒロの創業社長の後輩の方で、創業社長がガンで倒れたことを知り、『三渡さん。あんたは商売は下手だったけど、良い人やった。息子さんは私がしこむから任せておきなさい。』と、病院のベットの横で約束をしていただいたようです。そうして、この方の保証で、そのころのヤマヒロではとても貸してもらえないような大金、5千万を借りることが出来、昭和62年、一切の手形をやめることができました。これにより、手形の期日に追われる毎日から、商品やサービスの向上に集中できるようになったのです。
感謝の気持ちとともに歩んだ成長期
ガンで他界した初代の跡を継いだ二代目(現会長)の三渡圭介は、この年に創造経営というコンサル会社に学びます。内容は、会社を繁栄させるには家族を繁栄させること。そのためにはまず、家族のルーツを知ること。そのために家系図の作成を始めたのです。 親戚やその菩提寺をまわり家系図を作成します。その結果、ご先祖様がた、そして父である創業者たちのそれぞれの苦悩を知ることとなります。多くの先祖達が多くの苦難を乗り越えて、その結果として今ここに自分がおり、会社が存在することを知ります。 そうして徐々に感謝の気持ちが会社の社風に加わり始めました。 世は平成へと移り、向かえた空前絶後の好景気、そしてバブルの崩壊。地価が一気に落ち、世の中は混乱します。しかし、創業者の死後、社風に感謝の気持ちが出来始めたヤマヒロに対し、創業者の友人をはじめ多くの人々から支えていただけるようになっておりました。また、改装工事の小さな物件を多く集めることにより、安定した売上げが可能となり、ヤマヒロは順調に伸び続けました。そうして平成4年ついに累積赤字が0(ゼロ)となります。 その後、28年間にわたり、多くのビジネスモデルや商品開発をおこない、現在に至ります。
一例を以下に紹介
- 『OMソーラーハウス』により環境に配慮した家づくりに大きく方向転換をはかる
- チラシ営業を行っての、本格的な『リフォーム業』の開始
- 建築材の流通の改革を目指した『(協)しそうの森の木』の設立
- 品質確保法を積極導入するためのプレカット工場の建設
- 県の後立てを得た県産木材利用推進の工務店の会『ひょうご木の住まい協議会』を創設
- 地元林業の復活を目指した『しそう杉の家』の開発
etc ・・・
継続すること、それは企業としての使命
平成5年、ヤマヒロは明確な企業理念を打ち出しました。それは、これまでの苦しい道のりの中から生まれました。 『社業を通じ、人の営みを創造し、 人として企業として、生きた証を遺す』 この理念は会社の低迷、創業者の死、世の中が路頭に迷うなか、多くの人々に助けていただき、家系図を創って先祖や創業者の思いを確かめ、人として、また、企業としての使命感を持つに至った結果にできた企業理念です。 解釈はいろいろあるとは思いますが、一言で言ってしまえば『継続』であると言えます。会社を継続させること。これがお客様にとっても、社員にとっても、最高のサービスであり、最高の商品であります。そしてそのサービスや商品が生きた証であります。 継続させるための努力の中に、お客様、そして地域の歴史・地域の社会への想いが生まれます。それは感謝の気持ちかもしれません。 創業60年、ヤマヒロは、多くのお客様や業者様、そして社員たちに支えられてなんとか継続をしてきました。 人々に必要とされる事業はつぶれることはありません。人々がつぶさないからです。 ヤマヒロが地元の林業をはじめとする産業の復興にこだわるのはそのためです。地域社会に対して貢献できる会社であり続けること。それが会社を継続させるための絶対条件です。お客様と100年のお付き合いが出来る会社になるためには、あと最低でも40年継続させる必要があります。 『おつきあい100年宣言』は60年の苦難の歴史を乗り越えてきたヤマヒロの想いです。